「こっちの人間は、何だか腕が細いな！　マトモにボール投げれねーんじゃないの？」
　思わず正直な感想を口にしたグリーンに、ミレイは僅かばかり首を傾げ。
「だって、投げる必要性もあらへんもん」
　至極まっとうに、指摘した。
　ボールを日常的に投げる必要性なんて、ない。だって、ここは……。
「あ……。そっか、そうだったな」
　成程、こういう些細な点でも、変わってくるものなのか。
　ポケモンがいないという事は。

「僕に勝つくらいだから、彼女はきっと、強いんだと思うんだ。問題は、どこの地方の子なんだろうって事」
「それが分かれば、そこのジムリーダーなり博士なりに話が聞けるかもしれねーって事か」
「……それは甘いよ」
　謎の少女の事が気になるのか、レッドは次の週末もグリーンに会いに来た。ジムが終わる頃を見計らって。
「もしかしたら彼等だって、彼女の事、忘れてるかもしれない」
「オレ達と同じように、か」
　レッドは物憂げに頷く。
　グリーンは考え込んだ。何だか、今の会話に引っ掛かりを覚える。他の地方のジム……。どこかで、そんな話を、聞いたり話したりした覚えはないか？
　――お前がジョウトのジムを全部制覇したって？　はははっ、ジョウトのレベルはその程度のもんかよ！
「……ジョウトだ」
「？」
「ちょっと思い出した。そいつ、ジョウトから来た奴だ」
　ついでに、嫌な思い出も呼び起こしたような気がする。油断してたら……コテンパンにされたような。
　――レベル差見えてたら、貴方は同じ事が言えましたかね？
　誰かが笑っている。
　――おいで、……。
「ジョウトを制覇したって言ってた。って事は……セキエイの殿堂入りの記録に、残ってるかもしんねー。取り敢えず、ワタルに話を聞いてみるか。ワタルが忘れてたって……まさか、記録まで消えてるわきゃねーだろうしな」
「……だと良いけどね」

　形のなかった不可解なモヤモヤは、記憶の欠如という形を得て不快感を増した。
　忘れているのは分かるのに、何を忘れているのかは、忘れているものだから分からない。どんなに思い出そうとしても、記憶はあまりにも朧げで、全くあてにはならなかった。
「……一体、何だってんだ！」
　ジムで鬱々と考え込む自分に苛々してきたグリーンは、取り巻き達を振り切り、グレン島に来ていた。ここは静かで、滅多に人が来なくて……、それで、よく考え事の際には来ていた場所だ。
　――本当に？
　見慣れた筈の風景すら、何だかよそよそしい。言葉にできない苛立ちを発散させるかのようにウロウロと狭い島内を歩き回り、何故か一定の場所に視線が向くのを止められない自分をグリーンは認識した。無意識のうちに、そこに何かがあった筈だと、探している。
　島内を三周する頃には、それは確信にも似た鮮明な違和感となって、認識された。そう、そこには何か……失われた記憶の手掛かりが、あったのかもしれないと。
　違和感に素直に従って崖のふちに足を進めたグリーンの耳に、波の音と、風の音が届く。何かを思い出しそうなのに、それは未だ、手が届かないほど遠く。
　これ以上ここで考えていても、仕方ない。
　グレン島の違和感を判断材料として脳内メモに記しながら、グリーンはその場を後にした。何故だか、ひどく、後ろ髪を引かれるような気分で。

　グリーンは、最近胸の奥がモヤモヤしているのが不可解でならなかった。
　一年以上消息を絶っていた、幼馴染にしてライバル、兼親友のレッドが、消えたとき同様突然トキワに姿を現したのが、一週間ほど前。その衝撃が薄れてくるにつれ、何とも言いようのない違和感が、グリーンを襲うようになった。
　何か、何かが引っかかる。ボタンを一つ掛け間違えているのに気付かないような、言葉にできない故に余計ざらついた感じのする、不快感にも似た……。
「そーいや、何でわざわざトキワまで降りてくる気になったんだ？」
　一週間前、グリーンの前に突然やって来たかと思うとすぐにまたシロガネ山の山頂に戻っていったレッドは、今週もまた、いきなりトキワジムに押しかけてきた。殆ど来ない挑戦者を待つグリーンの横で黙々とボールを磨いていた彼は、透き通るように綺麗な瞳を、グリーンに向けた。
「……負けたから。完膚なきまでに」
「ふーん……って、負けただと！？　お前が！？　誰に！」
「分からない」
　レッドは不機嫌そうに一言、返した。
「分からないってお前なぁ……！」
「名前を聞くのを忘れた。彼女が言ったんだ。『勝者としてお願いします。ポケモンを回復したら、いい加減、グリーン君に会いに行ってあげて下さい。』って……。あんな問答無用の勝ち方されたら、断るわけにもいかない。そろそろ潮時かな、とは思ってたけど」
「そんなに容赦ない相手だったのか」
「彼女はポケモンを、一匹しか出さなかったよ。この僕に勝ったっていうのに、全然嬉しそうじゃなくて……何だか泣きそうで。それが一番悔しかった。でも何でかな、そんな彼女はグリーンに何となく似てる気がした」
　こんなにレッドが饒舌になるのは、珍しい。よっぽど、その女性トレーナーは、印象的な相手だったのだろう。
　何となく似ている、相手。そういえば、ほんの少し前、自分も同じ事を思った筈だ。レッドに似ている……似ている？
　――誰が？
　何かが引っかかっていた。引っかかってはいたのだ。
「どんな奴だったんだ？」
　グリーンの声のトーンが、僅かに下がった。浅い付き合いならば見抜けなかったであろうその変化を、けれど幼馴染ゆえにあっさり見抜いたレッドは、何とか記憶を掘り起こす。
　そう、たった一週間ほど前の出来事を思い出す為に、努力して記憶を掘り返す。その事に気付いて、レッドの声もまた、真剣味を帯びた。
「赤い上着の、女の子。黒っぽい髪は二つに括っていて……白い帽子をかぶっていて……」
「レッド？」
「確かに、何かがおかしいね、グリーン」
　こめかみを押さえながら、レッドは呟いた。
「思い出そうとすればするほど、思い出せなくなっていくんだ。……ああ、そうだ。彼女は最初に、僕に聞こえないと思ってこう言った」
　――……ああ、おった。
「だからきっと、カントーの出身じゃなくて……」
　二人は、顔を見合わせた。
「オレ達は、誰を忘れているんだ……？」

「…スゥさんに用事？　ですか？」
「ああ。お前さんなら、彼女に連絡が取れるのだろう？　できれば急ぎでな」

「失礼します。何か、用事があると聞いてきましたが」
「オーキド博士、彼女が？」
「うむ。身元は知らんが、人柄と炎ポケモンを扱う実力は確かじゃよ」
　スズは訝しげに、オーキド博士と話す初老の男性を見た。
「初めまして、スズさん。ポケモンリーグの者です。今回貴女をお呼びしたのは、急遽グレンジムのジムリーダー代理を務めていただくためでして」
「カツラがの、ジムを掘り広げる作業に夢中になりすぎてぎっくり腰になったのじゃよ。それが治るまでの間、頼まれてくれんかの」
「ぎ、ぎっくり腰……。それは確かに動けなくなりますもんね。分かりました、それなら仕方ないです」

「挑戦者さんですか？　初めまして、グレンジムの代理ジムリーダー、スズランです。ジムリーダーさんは現在ちょっと…ジムの工事に夢中になりすぎて、ぎっくり腰になったそうで」
　ジムの中央で岩の椅子に腰かけていた、スズランを名乗る女性は、困ったように笑った。
「炎はその光で辺りを照らし、熱で辺りを温める。今の人間の生活にはなくてはならないものです。けれど、扱いを一つ間違えれば、炎は辺りを焼き尽くす。心の情熱も、炎と同じ。なくてはならないものだけれど、過ぎれば毒になりえます」
　スズランは立ち上がり、傍らに置いてあったボールを手に取った。
「あなたは炎を御せれていますか？　荒れ狂う炎を乗り越えるに相応しいと、私に示すことができますか？」

「本当に、ここでジムリーダー代理をやっているんだな」
「あなたのジムを放り出してても良いんですか？」
「どうせ他のジムバッジを全部揃えないと、戦ってやるつもりはないから良いんだ」
　彼は獰猛に笑う。
「今まで何だかんだと逃げられてきたが、そろそろオレとバトルしてくれても良いんじゃねーの？」
「それはジムリーダー代理の炎ポケモン使いスズランに対して？　それとも色キチのスズ？」
「本気のお前と、だ」
「そうですか」
　スズは溜息を吐き、ボールを手に取った。

「アオバ、十万ボルト」
「！」
「私が色炎ポケモンしか持っていないと、いつ言いました？」

「学会の手伝いが足らへん…ねぇ」
　ミレイは苦笑した。
「かといって、わたしじゃ…明らか、歳足らへんやろ？　あ、でも、助っ人なら一人呼べると思うから、呼んどこか？」

「お、お前は……色キチのスズ！」

「えっ！？　まさか、ミ……」
「初めまして、ウタタさん。私は、臨時バイトのスズと申します」
「そ、そう……」

「どういうことなの？」
「うん、向こうの姿再現してもらってんの。ただ、もうこっちは本来の姿やないから、体調的にはマジでギリギリのラインに落ち込むんやけどね」

「お前、慣れてんな」
「学会の手伝いをするのは初めてじゃありませんので」

「ほぅ、君がミレイの推薦で来たバイトかね」
　スズは無言で一礼した。
「君ほどの人材が、何故今まで無名でいたのかが不思議だ。トレーナー歴は？」
「私はポケモントレーナーではありませんので」

「ロトムの研究とポリゴンの研究は、お互いに協力し合えばもっと有意義なものになると思うんですけれど。両者とも、機械に係わるポケモンなんですから」
「……うーむ」

「スズ、君のその知識はどこで身に着けた？」
「先程の話でしたら、実はミレイの受け売りなんです」
「何と、ミレイか！　今度、彼女ともじっくり話してみたいものだな。それはそうと、君は研究に協力するつもりはないのかね？」
「助手なら、ウタタさんがいらっしゃるのでは？」

「……アカガネ！」
　暴漢に、スズが繰り出したのは通常色のウインディ。

「何を笑っている！」
「私の役割は、本職の警備が来るまで何とか持ち堪える事。アカガネ、よくやりました」

「色ポケモンばかりだったから見落としてたが、お前は本来炎ポケモン使いだったのか」
「さぁ、どうでしょうね？」
「リザードン、キュウコン、バクフーン、ギャロップ、そして今回のウインディ…全て炎ポケモンじゃないか」

「ふむ。ますます不思議だ。お前さん、本当にポケモントレーナーではないのかね？　十分、トレーナーとしてやっていける強さではないか？　知識もあるようだし…。野に埋もれさせるには惜しい人材だと思うんだがなぁ」

「どうしても私と連絡を取りたいのならば、ミレイに言付けて下さい。私は、ポケギアは持たない主義なんです」

「色違いハンター？」
　ミレイは首を傾げて問い返す。
「ロケット団が解散したろ？　大物がいなくなって、小物が羽を伸ばし始めたってところだな。なまじ小さいものだから、なかなか一網打尽にできなくて」
「ふぅん…」
　ミレイは更に何かを考えるような素振り。

「どうしようか、ミミ」

「色違いハンターって、色キチのスゥ…じゃなくて、スズさんの事？」
　数日後、ミレイはそう訊ねてきた。
「わたしの知り合いやと、スゥさんくらいやねんけど。でも、彼女が？」

　時を同じくして、街中で堂々と色違いポケモンを連れ歩く、女性の姿が見られるようになる。
「…誰だお前？」
「あら、どなたかと思ったら…ジムリーダーさんじゃないですか。私は単なる旅行者ですけど？」
「名前を聞いているんだ」
「何だかピリピリしてますねぇ。スズです」
「スズ…色キチのスズ！？　っていうか、色キチってどういう意味なんだ？」
　スズは軽やかに笑った。
「色キチだなんて、初対面の本人を前に言う言葉じゃないですよ。どうせなら、色狂いの、と呼んで下さい。まぁ、その無謀さに免じて教えてあげましょう。色キチは、色気違いの略です」

「お前が色キチのスズか？」
　ガラの悪い男性を前に、スズは微笑む。
「流石、ジムリーダーのお墨付きは違いますね。最も手っ取り早く、有名になれる」

「色狂いのスズ、お前の目的は何だ？」
「ですから、旅行ですって言いましたでしょう？」
　詰問をのらりくらりと、スズは躱す。
「色キチのスズさんよぉ。ちょっと話があるんだぜ。色違いの話だ」
　割り込んできた男性に、スズは素直についていく。
　慌てて追いかけるジムリーダーの目に映ったのは……

「私からポケモンを奪おうなんて、あなたの力量じゃまだまだ早いと思うんですけど」
　スズは男性に微笑みかけた。
「その奪ったポケモンを置いていきなさい。または、このままあなたを彼に突き出しましょうか？」

「密売会？」
　彼女の目が光る。

「これ程盛大なお祭りに参加しないなんて、面白くないじゃないですか」

「お前は、誰だ？」
「私はスズ。色狂いの、色キチの、スズ。それ以上にあなたが知りたい事なんて、ないんでしょう？」
「そんな事が聞きたいんじゃない！」


※
『ミレイ！』
　彼女のポケモンが思わず悲鳴のように叫んだ名前を、珠姫は聞き逃さなかった。
「……何だって？」

「わたしが地名を聞いて判断したように、スゥさんに何か聞きたいなら、彼女の鍵を見付けなアカンねん。いくら珠ちゃんでも、そこはきちんとしてもらわな」